趣味をやったら書くブログ

楽しんだ時間の記録と整理

阿・吽 おかざき真里/小学館

川崎大師に参ったらこの漫画について書こうと決めていた。最澄空海(後の弘法大師)の物語だ。今、個人的に一番新刊を楽しみにしている作品でもある。

 

出家する前から優等生で、しかし出家する前も後も、苦しみの中に居続ける最澄と悟りの境地を求める余り体を蔑ろにしてしまう野生児のような空海。各々が仏の教えに対する「才能」(と呼んでいいのかわからないが)がありすぎて、二人がそれぞれに思うことを完全に理解できるのがお互いしかいない。

最澄は既にたくさんの弟子を抱えているし、空海は「人たらし」とまで呼ばれ、友人に多く恵まれている。

それでも、周りの他の人間は、彼らの思想を完全には理解できない。

主人公二人は要所でしか顔すら合わせない。なのに、そういう繋がりが確かに存在していることを表す描写が随所にある。

自分がネタバレ回避派なので、内容を詳しく書くのは控えるが仏教・日本史の話、とだけ考えて「難しそう」と引かずにぜひ読んでみてほしい。絵にも話にも迫力があり、当時の世相と相まってなぜあの二人があの時代に必要とされたかが知らぬ間にちゃんと読み取れるようになっている。

読むたびに鳥肌が立つし、涙が出る。

今にも続く仏教の大流派の開祖たちはこんなにも壮絶な人生を送っていたのか、と前から好きだった寺社仏閣巡りが趣味として少しだけ深まった気がする。

 

物事は常に多面である。

極論は刺激的だし、身を任せてしまえば世が単純に見えて楽にはなるが、私たちは考えることを辞めてはいけない。

そして、自分と同じように他人にも考えがあり、基本的には互いに否定されてはならない。

大昔の、想像を絶する痛みと、悲しみと、絶望を超えて、自らの悟りを広めてくれた人々の物語は、現在の人々が忘れがちなことを思い出させてくれる。

 

※念のため断っておくが、私は極めて日本人的な無宗教者である。特定の宗教を支持・信仰することを推奨しているわけではなく、逆にどの宗教も否定はしていないことを申し添えておく。この記事で語ったのは私の好きな漫画とその感想である。

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厄払い/川崎大師

期せずして2週連続で神仏に詣でてしまった。

こんな書き方だと失礼な気がするが、心情としてこれ以外の言いようがない。

 

どうも最近ツイていないことが重なっていた。詳しく書くとまた落ち込んでしまうので止めておくが、どうにも理不尽な災難が降りかかってくることが続いていた。

そういえば今年から厄年だったな、と思い出したのが昨日の昼あたりだ。

厄年の厄払いは節分までに行うのが望ましいとされている、と聞いた。昨日2/2はフラメンコの後歯医者の予約を入れていたので行く暇がなく、2/3は節分である。そして払うならば早いところ払ってしまいたい。ならばもう行くしかない。

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川崎大師駅から川崎大師に行くまでの道は非常に込んでいた。節分である。川崎大師でも豆まき行事が行われることは、昨日、祈祷の時間を調べたときに知った。人込みが苦手なので、豆まきとは重ならない時間で祈祷を受けようと思っていたのだが、家を出る直前にイヤホンが見当たらないことに気付き、探していたらギリギリの時間になってしまった。目当ての時間の回を逃すと次は90分後、豆まきと時間が重なってしまう。仕方ない、遅れたのは自分のせいだ。腹を決めて急いで申込用紙に記入して受付に行くと、もう時間は過ぎていたがなんとか滑り込ませてくれた。

本堂は既に人が溢れ返っていた。御本尊の前では火が高く上がり、火の粉が天井まで吹き上がっているのが見える。向かって左側に正座をし、合掌して祈りを捧げる。目を閉じてお経に耳を傾けていると、段々と心が落ち着いていくのがわかる。その後、促されて御本尊に改めて手を合わせ、護摩と呼ばれるお札を授かる。

不思議なもので、全てが終わったときには「もう大丈夫」とすっかり安堵した心持になっていた。

多分、私の人生においてはこれが大事なのだ。昔親から言われた「お天道様が見ている」ではないが、そういう、大いなる存在を思い出し、自分のことを確認する時間が。非常に清々しかった。

おみくじを引いたら大吉だった。ありがたい気持ちでお寺を後にする。

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今日は天気も良く、寒さも和らいでいた。歯の治療も昨日で終わった。

それで十分じゃないか。

最近忘れていた気持ちが戻ってきていた。もらったお札を大切に、厄年を乗り越えていこうと思う。

護摩に数え年で書いてもらうべき自分の年齢を思いきり満年齢で申告していたことに今気づいたが、神様や仏様はきっと、そんな間抜けでもどこかで見守ってくれているはずだ。

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初詣・日枝神社

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例年なら帰省中に地元の神社に行く機会があるのでそこで初詣が出来るのだが、今年はどうもタイミングが無く今日やっと行くことが出来た。今年はなんとなく、いつもより忙しい。

 

そもそも寺社仏閣は好きだが、日枝神社は特に好きだ。定期的に詣でてしまう。なにが好きなのかと考えると大事な部分は上手く言葉に出来ないのだが、あの場の空気が肌に合う気がする。都心のビジネス街の中に急に現れるのも東京という街を表しているような気がして好ましいし、おかげで休日に参拝すると周辺がとても空いているのも良い。この記事も溜池山王のスタバで書いている。なにより、日枝神社に参ると元気になる。パワースポットとはよく言ったものだ。

 

1月という時節柄か、今日は普通の休日より込んでいた。参拝に並んだのは記憶にある限り初めてだ。神社で願い事をするときは住所氏名を伝えよ、という話を聞いたので実行してみた。どこの誰かわかっている願いの方が、神様も叶えやすい、ということらしい。果たしてどうなるだろうか。楽しみである。

 

どこの神社やお寺に行っても必ずおみくじを引く。お守りより安価だし、自分の今の運を確かめる、という行為は案外他で代えられないからだ。

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今回は中吉だった。日枝神社のおみくじは基本的に優しい。そこも好きだ。願い事は次第に叶う、とあったので他の悪いことも次第に良くなるだろう、と思うことにした。我ながら前向きだと思う。

 

今年もよろしく、と本殿を見上げ、日枝神社を後にした。なにもない一年などあるわけがない。どうにもパワーが足りないときは、寺社仏閣の力を借りながら、今年も楽しく生きていきたい。

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走る・皇居ランサークルに参加

もっと体力をつけたい、そのためには週に1回1時間のフラメンコだけでは足りないだろうと考え、皇居ランのサークルに参加申し込みをしたのが年末年始のことだ。イベント開催日と自分の予定がなかなか合わず、昨日やっと参加することができた。

 

ずっと前に1回だけ個人で皇居の周りを走ってみたことがある。というか、走ったつもりだった。昨日走った道とはところどころ違うルートを通った気がするので、あの時は意図せずショートカットしてしまった部分があったのではないかと思う。

そして、その時ですら全部は走り切れず途中で歩いてしまった。初心者歓迎のサークルを選んだとはいえ、途中で止まったり遅れたりして初対面の人たちに迷惑を掛けるのではないかと朝からやや緊張していた。

 

ランステーションと呼ばれるシャワーやロッカーのある施設が集合場所だった。受付にて更衣室内のロッカーは一杯と言われ男女共用の場所にあるロッカーのカギを渡される。ウェアやスニーカーを貸してもらえるのは知っていたが、今回は正月にそろえたランニング用の一式を持ってきていた。

着替えて改めて集合場所に向かう。行ってみて想像よりかなりたくさんの人がいて驚いた。後からこっそり数えたところ、昨日の参加者は20人以上いた。他にも団体がいたり、たくさんの個人で走っている人がいたりして、ランステ内の混雑も含めて、ブームを目の当たりにした思いだ。

メンバーに自己紹介をし、準備運動をして全員で2列になって走り出す。防寒着を用意するのを忘れていたため、走り出すまでは凍える思いだったが、5分も経てば寒さは感じなくなった。走っている間ほかの参加者とずっと会話をていたが、息が上がりすぎて会話が出来なくなることもなかった。どころか笑う余裕があったくらいなので相当ペースは抑えめだったのだろう。

結果、1周を歩きも止まりもせず走り切ることが出来た。

やはり皇居の周りは走りやすい。信号もなく、起伏も緩やかだ。個人的にコース終盤で下り坂になるのも良かった。

そして、うっかり集団の前方位置で走り出してしまったために、「止まってしまって後ろの人に迷惑を掛けるわけにはいかない」と気持ちに張り合いがあった。

40分ほど掛かってスタートした場所に戻ってきたとき、久しく感じていなかったほどの達成感を覚えた。走るのにハマる人の気持ちがわかった気がする。

私は1人では多分「走る」ことを習慣づけることが出来ない。サークルに参加されていた皆さんがとても良い方々ばかりだったのもあり、ぜひまた参加したいと思っている。その前に、防寒着を買わなければならない。

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フラメンコ・3 リズム感

年明けしばらくは、どうも仕事が忙しい。

身体的というより精神的に疲れてしまって、今週はほとんど自宅で練習ができないままだった。

 

昨日の練習は2種類のステップを繰り返しながら段々とテンポを上げていく、というのが中心だった。

最近先生は、1人1人を前に出して他の生徒に見せる、ということをしたがる。今回も1人ずつ順番で前に出て”リーダー”的ポジションをやることになった。

 

”リーダー”は自分のテンポでステップを始め、段々と速くしていく。

他の皆さんはそれを追い越さず、遅れず、”リーダー”のテンポに合わせて同じようにステップを踏む。

 

自分を含め初心者ばかりのクラスなので、途中でリーダーのステップが崩壊したり、急にテンポが上がりすぎてしまったりすることも多かった。

私がリーダーをやったときは「皆に聞こえるように足を鳴らさないと」と思いすぎてステップが重くなり、自分の足音に引っ張られてテンポが乱れていた、と指摘された。

 

我ながら、リズム感も無ければ身体の使い方もままならないというのによくダンスなどやってみようと思ったものだとレッスンに行くたびに愕然とする。

先生が、「リズム感はいくつになっても鍛えられる」と言ってくれたのが救いだ。歩いているときに一歩と一歩の間を手で打ってみると裏拍に対する感覚が鍛えられる、と簡単に出来る練習も教えてもらった。

ハードルは高いうえに多い。リズムに乗って、手と足を別々に動かしながら、美しく踊る。

 

まずは基礎だ。そのために自主練だ。

疲れている、ということを言い訳にせず、できていないことを潰していくつもりで頑張っていこうと思う。

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空いているカフェにいる

空いているカフェを見つけるのが、どういうわけか得意だ。

大学の頃、最寄り駅のイトーヨーカドーの2階の奥に発見したカフェが本当にいつでも空いていて、連れていく友達皆に「こんなところにカフェが?!」と驚かれていた頃から変わらない。

 

都会で暮らしていて不満なのは、どこでも込んでいることだ。ただ、楽しいことはまず人が集まる見込みがあるところで催されることを考えると、それは間違いなく都会の長所でもある。ここでは、私の地元のように、駅前のミスドや本屋が人が来ないという理由で潰れたりしない。

 

そんな都会でカフェが空いているということは、空いているなりの理由がある。今日入ったカフェも空いてはいたのだが、入り口が開閉するたびに外気が入り込み、暖房が意味を成していなかった。

 

空いていてかつ快適なカフェを見つけるのは難しい。この辺りに引っ越してきてからまだあまり日が経っていないので、まだ探している途中である。

カフェ巡りではなくカフェにいることそのものが趣味なので、別にチェーンでもなんでも良く、コーヒーの味もよくはわかっていないので相当まずいと感じなければなんでもいい。

ならマクドナルドでいいのでは、となってしまうが、マックはいつでも込んでいる。モスは場所によっては非常に良い場合もあるのだが、残念ながら、今、歩いて行ける範囲に存在しない。

ここに行けば、飲み物一杯で安心して読書や書き物ができる、と確信できる場所が、日常に必要だと強く思う。それだけで、なんとなく安心できるからだ。今の私にはそういうカフェを探し当てることが急務である。

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フラメンコ・2 良い表現とは何か

一昨日、やっと今年初めてのフラメンコのレッスンに行った。

以前の記事にちらっと書いた「自分なりに踊ってみる」ことの発表の場でもあったのだが、驚いたことに先生に非常に褒めていただいた。

尤も、褒められたのは考えていった部分というより、最後に「ああ、そういえば“シメ”ないといけないのか」とその場で何となく考え、最後のリズムに合わせて足を2回鳴らした部分だった。一緒に発表した2人と合わせて、“シメ”たのは私だけだった。

 

表現をするとき、上手く“シメ”られるかどうかは言われてみればとても重要だと思う。作者が死んでしまった、などの特殊な事情が無い限り、完結していない物語が商業ベースで世に出ることはほぼない。

シリーズものを上手く終わらせられない、ということはままあるにせよ、そうなると必ずその作品は“失敗作”と呼ばれてしまう。

起承転結は、どんな表現においても基本なのだと思う。

 

考えていった一連の動きはもちろん、“シメ”方も先生に“フラメンコらしく”直していただいた。つまり、どうすれば私が“したい表現をできるようになるのか”ということだ。

“やりたいように出来るようになる”

様々なことに対するモチベーションはここに集約していくのかもしれない。

何度でも書いてしまうが、私の運動神経は恐ろしく鈍い。

だが、褒めていただき、道を示していただくことで、モチベーションをどうにか保つことが出来る。

今年も、自己表現の手段を増やすべく、頑張っていきたいと思う。

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ヒルトン東京 マーブルラウンジ デザート&ディナービュッフェ

食べるのが趣味の友人がいる。

私も、生きている間になるべく美味しいものを食べたいと考えているタイプだ。

 

先週水曜の昼休みに突然彼女からの誘いがあり、その夜に表題のビュッフェに行ってきた。

 

我々と同じく食べるのが好きな方には特にデザートビュッフェが有名だろうか。

この時期は毎年苺がテーマの大人気のビュッフェで今年ももう3月終わりまで予約が埋まっているらしい、と友人が言っていた(間違っていたらすみません)。

今回は「平日限定 直前割」という友人が見つけてくれたクーポンを利用したので¥6,102のところ¥4,000で食べることが出来た。デザートビュッフェのメニューのうち15種類がこのビュッフェにも置かれている。

 

ラウンジに入った途端、我々2人は歓声を上げた。

「可愛い!」

デザートビュッフェのテーマが“猫”とのことで、このビュッフェでも恐らくほぼ同じ内装が使われている。ディスプレイに猫、壁にもプロジェクションマッピングで猫、床にも猫の足跡。特にプロジェクションマッピングは私の可愛さのツボにぐっさり刺さった。パリ風のカフェの中と外をおしゃれなデザインの猫が闊歩している。可愛い。人が少ない時を狙って動画も撮ってしまった。

 

可愛いものを見たら、テンションは上がる。その上今から美味しいものがたらふく食べられるというのだから、年明けで忙しなく荒んでいた私の心はこの時点で大分晴れやかになった。

食事もデザートも本当に美味しかった。

味を伝えるということがどうしても上手くなく、ただ美味しいというしかないのがもどかしいのだが、どの料理を取っても高級ホテルのディナーとして満足のレベルで、種類も大変多い。相当お腹を減らしてから行くか、取る量を工夫しないと全種類は食べられないと思う。

 

カニ、エビ、ローストビーフ、苺のゼリーやタルトやケーキ。

美味しいものは必ず自分を幸せにしてくれる。

美味しいもので吹き飛ぶ悩みなんて元々大したことじゃない、なんて言ってくる心の無い奴のことは放っておく。

日々の困難に立ち向かうために、時々贅沢をして力を蓄える。それもまた、楽しく生きるために必要なことだと、私は思っている。

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が~まるちょば サイレントコメディ JAPAN TOUR 2018 1/12@TBS赤坂ACTシアター

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やっと見に行けた。

「パントマイムがすごいモヒカンの日本人2人組がいる」と聞いてから、気付いたら15年くらい経ってしまっていた。

そんなに時間が経っているにも関わらず、昨日見たが~まるちょばはその情報の時のビジュアルのままだった。

 

舞台・ライブなど生でプロのパフォーマンスを見るのが好きだ。

後日発売される映像で細かいところを見るのも好きだけれど、演者の気迫と観客の空気の中にいて、その時にしか見られないものを見るというのはつまりその時にしか感じ取ることが出来ないものを感じるということで、それはその日、客席か舞台の上にいなければどうしても体験できないものだと思う。

だから、映像と比べて割高でも、その日暑くても寒くても、時間を合わせて移動して会場に行く。

他の客席の方々がどういう思いなのか私には知る由もないのだけれど、私は、見るからには圧倒されるくらいのパフォーマンスを見せてほしいと願って席に着く。

 

が~まるちょばは、期待以上に圧倒してくれた。

最初の演目で、有名なトランクやエレベーターのマイムを交えながらとにかく客席を弄る。子供を中心に舞台に上げたり、全体を歌手のライブのように手拍子させて煽ったりして一体感を作り上げ、客席はすでに笑いが止まらない。

サイレントコメディーと銘打つだけあって、2人とも終始

 


(はっきりとは)言葉を発さない。客を煽るときや舞台に上げるとき、実は最初は絶対に指示が伝わっていない。それを上手く利用してまた笑わされる。

そしてプログラムが進むごとに「あんなところに伏線が張られていたのか」とたびたび驚かされ、最後には技術と構成の完璧さに脳が痺れるくらい感動した。

ステージに上げた客の中にHIRO-PONがまざっていたり、最後の演目で誰もいない舞台の上をスポットライトが移動するだけで笑いが起こったり、陳腐な言い方になるが計算し尽くされていた。全て作り手の掌の上だった。

 

日本の娯楽が「ライブで稼ぐ」スタイルになったと少し前から言われるようになった。タイミングを同じくして、個人的に好みのパフォーマンスをする方々をTVで発見できる機会が減ってしまったように感じる。つまり、自分で探しに行く時代になったのだ。

 

家で映像を見るのとは違い、客席は何百、何千、会場によっては何万もある。それだけの数の他人と一緒に見る以上、快適に見終われるライブばかりではない。昨日も近くに独り言が大きすぎる男性がいて、集中が殺がれがちになったのだけは残念だった。

それでも、恐れずに気になったパフォーマンスは積極的に生で見に行く姿勢を保ち続けたい。最高のライブ体験だった。

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走る

正確には、今、走ることを趣味と言うのは申し訳ない。なぜなら走ることを目的に外に出たのは今日が初めてだからだ。

しかし、歩く以外の運動習慣が無いまま30を超え、体力の衰えをひしひしと感じる中で、三谷幸喜が「集中力は体力」と言っていたのを今、我が身で体感しているため、「表現」が目的のフラメンコに加え、「体力づくり」はそれはそれでやらなければならないのでは、とずっと考えてはいた。そして、年末、勢いで都会のランニングサークルに申し込んだ。

しかし、いきなり走るのに慣れている人に混じって大丈夫だろうか、と行動したそばから不安になり、私は考えた。

 

幸いにも、今は正月休みだ。帰省先の実家には数年前からランニングを続けている妹がいる。街を走っても、ど田舎故にほとんど人がおらず、迷惑になることもなかろう。新年だし、やりたいことはやるって決めたじゃないか。

そして昨日、私は妹に付き合ってもらってランニングウェアを一式揃えた。初売りはスポーツ用品店も行なっていて、靴を含めて全身二万以内に収めることができた。

何か始めるならセール時期に限る。

買い物したテンションの続きで、帰りの車の中で妹に向かってこう言った。

「明日これ着て走りたい!」

新しいものを手に入れるとなぜテンションが上がるのだろう。彼女もランニングについては続けられる程度には好きなので、じゃあ大体五キロになるコースがあるから、一緒に走ろうと頷いてくれた。経験者が身近にいるというのは新しいことを始める上で幸せなことだと思う。それが血縁なら尚更だ。

そして彼女は走り出して2キロを超えたくらいで私の視界からは消えた。

もちろんそれでいい。私は私で1キロを超えた辺りから瀕死みたいに息が上がり、一緒に赤信号で立ち止まるとまばらな通行人にもれなく注目されて申し訳なかった。

大体どこを走ればいいか聞いていたので、信号で止まるたびに青信号を更に一回スルーする休憩を繰り返し、土地勘を活かして2キロほどショートカットして、ゴールは妹とほぼ同時だった。所要時間は30分くらいだろうか。

なんとなく、信号は無い方が良い気がする。止まって良い地点が多いほど、甘えて立ち止まってしまう。申し込んだランニングサークルが皇居中心の活動をしていて本当に良かった。あそこが人気なのはつまり、そういうことなのではないか。

今もって太腿の前部分が痛いし全身が気だるいが、昨日買った靴と服の機能を身を以て感じられたのは嬉しかった。

なにより、運動というのは「運動した」という結構大きな達成感を与えてくれる。

この調子で続けていって、体力は付くだろうか。とりあえずしばらくは、高い服を一式揃えたのだから、と自分に言い聞かせ、頑張ろうと思う。

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フラメンコ・1 思い立ったので

フラメンコを習い始めて10ヶ月程経った。

そろそろアラサーも無理がある年齢となった私が、休みの日には持っているDVDを見るか、ゲームするか、漫画を読むか、ちょっと元気があれば駅前のカフェでコーヒーでも飲むのがせいぜいだった私が、なぜそんなアクティブなことをしようと思ったのか。

理由は色々あるのだが、1番はつまり、上記のような休日とは全く違うことがしたくなったからだ。

土曜の午前、金を払っている以上行かないわけにはいくまいとちゃんとアラームを掛けて起床し、化粧をし、着替えと靴とファルダを持って練習に出掛ける。ついでにゴミも捨てられる。これだけで随分規則正しい休日が送れるようになった。

 

社会人になって10年以上、まともな運動習慣が無いままだったので、最初のひと月は1時間の練習で体力を使い果たし、帰宅したらそのまま夜まで寝てしまっていた。「逆に時間の無駄なのでは…?」と思わないでもなかったが、今まで続けてくるうちに、練習の後遊びに行ける程度には体力がついて来た。最近引っ越して家に大きな鏡があるようになったので、自主練が楽しくなり、前よりは上達を感じられることも増えた。

 

つくづく思うのは、自分の身体は自分のもののようで自分のものでは無いということだ。

フラメンコでは足音が重要で、大雑把に言うと足全体で打つとき、爪先で打つとき、踵で打つときの3種類が左右にあり、これを組み合わせてステップが作られる。

右の踵の次に左の爪先を打ってそのまま左の踵を落とし、右全体で打つ、みたいな、日常ではまずやらない動きがバンバン出てくる。全然スムーズに出来ない。本当に運動神経が鈍いので、踵といくら思っても足全体が鳴ったり、右を動かしたつもりが左を上げていたり、そんなことばかりだ。

 

だが楽しい。

 

身体を動かすのは楽しいという単純なことを、フラメンコを始めてやっと理解できるようになった。

 

人間、特にデスクワークをしている大人は日常では体の末端しか動かしていない。

関節という関節を鳴らしながら、右と左がわからなくなりながら、身体全体を使って先生の真似をして、なんとかリズムに乗ろうとしているのは、傍から見たら滑稽だろうが、私自身はとても楽しんでいる。

やってみなければ、分からないことだった。

 

今、私のいるクラスはちょっと変則の4拍子を自分なりに踊ってみよ、という課題を与えられている。YouTube等で研究してはみるのだが、どのように動けばいいのか考えているとどんどんリズムが分からなくなってくる。

鏡の前で手足を動かしながら試行錯誤していると、自分の身体が少し自分に近づいてきてくれる。

踊るというのはクリエイティブなことなのだな、と今更ながらに思う。

 

クリエイティブとはつまり、自分を思う通りに動かすということなのだ。

 

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ランウェイで笑って 猪ノ谷言葉/講談社

人生に迷ったり、精神的に参ったりしている時期は、つい漫画を買い込んでしまう。

小説を読むのにはある種の気力がいるけれど、漫画は本を開く元気さえあれば流し読みでもある程度内容を追えるところが、いい逃避になるのだと思う。

 

ちょっと前まで人生で何度目かの闇の中にいたとき、本屋で目について大人買いしたシリーズのひとつがこれ。

 

才能のぶつかり合い、友人でもあり恋の相手でもあり、夢へのライバルでもある、みたいな一言では言い表せない関係を描いた作品が好きで、「ランウェイで笑って」はファッションをテーマにそういうものを描き出す作品だと思っている。

 

超個人的な偏見として、漫画が好きな人は作中に「推し」を見つける人が多いと思う。

その推しキャラが作品を追うモチベーションになっているパターンが多いと勝手に思っているのだけれど、私はほとんど物心付いたときから漫画を読み続けているにも関わらず、あまり作中のキャラ1人だけを熱烈に好きになることがない。

関係性を見るのが好きである以上、作中のキャラほぼ全員に興味が持てないとそもそも作品を追う気にならないのだと思う。

千雪と育人、育人と心、千雪と心、心とマネージャー、育人と遠……おそらく作り手の狙い通り、主人公2人と周りのそれぞれ才能のある人たちとの関係の熱さが好きで、どう展開していくのかが知りたくて追っている。

週刊連載なので、バンバン単行本が出るのが嬉しい。

今日最新の8巻を買ってきた。

早くも9巻が楽しみである。

 

 

 

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