趣味をやったら書くブログ

楽しんだ時間の記録と整理

本を勧めるとき

読書が好きだというとオススメの本を聞かれることがよくある。私もよく聞く。

必ず返答に一瞬詰まるし、私が聞いた人も一瞬困っている。そして聞き返す。

「どんな本が読みたいですか?」

 

返ってきたジャンルによって推せる本が異なる上に、なにも聞かずにもしその人の地雷になる話を勧めてしまって本そのものを嫌いになられてしまったら、と思うと迂闊には題名を挙げられないものである。

個人的には「重くても平気か」と聞いてYesなら高野和明、恋愛が読みたいなら江國香織、ファンタジーなら森見登美彦、スカッとしたければコメディ寄りの奥田英朗辺りを勧めることが多い。

 

読書というのは贅沢な趣味だとつくづく思う。時間が無ければ出来ないし、読んでいる間は他のことは出来ない。

 

得てして他人の時間を頂戴するアドバイスになる以上、迂闊なことを言えない、と毎回ちょっと緊張する。それでも聞いてしまうのは、読んだことのない本を読みたいからだ。読んで今後の選択肢を広げたい。目が見えるうちは本を読み続けたい。

結果、人にも良いものを勧められて本好きを増やしていければ、などとちょっと夢のようなことを思っている。

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フラメンコ発表会

前日のリハーサルの時から“本番はあっという間”だと先生方に言われていた。

そして、終わってみて確かにその通りだと感じる。

朝早くから集まり、備品の準備をしたり着替えやメイクをしたりしているとあっという間に場当たりの時間になった。全演目の出演者が入れ代わり立ち代わり舞台に立ちフォーメーションごとの立ち位置を確認する。先生は全体の調整をしながら自分の出番も確認している。それも終われば後は裏方の方々の微調整の時間となり、私のようなただの出演者の端くれはまた楽屋に戻って崩れたメイクを直し、簡単に昼食をとった。

そんなことをしている間にあっという間に本番の時間がくる。500人収容のホールはほぼ満席となっていた。

率直に書いておこう。私はあんなに本格的な舞台に立つつもりでフラメンコを始めたのではなかった。歌も演奏もすべて生、しかも先生の人脈でかなり一流の方々が付いてくださっていた。私のような始めたばかりのレベルの人間が本来あのような方々の演奏でなど踊れないのだ、と打ち上げの席で先生に伺った。

何事もやってみるものだ。やってみなければ絶対に経験できないことだった。

そして、もっと練習できたはずだと1か月経った今思う。本番の後、一緒に出た皆さんが口々に「たくさん間違えてしまった」と言っていて、私も例外ではなかった。正しく踊れるかどうか、というより、もっと思いきり踊れるくらいになっていたかった。

私を含む入門クラスがメインで出演させていただいたのが“Tango de Málaga”(タンゴデマラガ=タンマラ)と”Sevillanas”(セヴィジャーナス=セビ)の2曲である。詳しくなくて申し訳ないのだが、セビはフラメンコを習い始めた人は全員必ず最初に履修するのではないだろうか。2人1組で踊る非常に有名なお祭りの曲で、スペインでは子供から大人まで誰もが踊れるらしい。どこで習おうと振付が共通なので、セビを知っている人となら誰とでもペアが組める。

衣装を買いにフラメンコ専門店に行ったとき、右も左も分からなさ過ぎて店員さんに「初めての発表会の衣装を探しに来ました」と助けを求めた。その際、店員さんの方から「セヴィジャーナスですね?」と言われたほどなのだ。

一回教室のクリスマス会でのステージでやって、今でこそ“お祭りの曲なので笑顔で踊る”が意識できるようになってきた。今回のステージでは隣のペアと腕が当たってしまうくらい大人数で踊った上に、私のペアは先生だったので随分のびのびと踊らせてもらった。

タンマラもカタカナで正式名称を検索すればごまんと動画が出てくる。哀愁の漂う曲調で、振り付けにキレがある。その分難しい。スピーダという一定のステップを繰り返しながら段々テンポを上げていく部分はギターと呼吸を合わせなければならないのに焦ると我々の足が先走ってしまい、最終的に自分たちでも追いつけない速度に上がってしまうことが練習で多々あった。皆で落ち着こう、よく聴こうと声を掛け合い、本番では一番きっちり合わせられたのではないかと思う。

今思い返すと、入門レベルでできるギリギリくらいの絶妙な難しさだった。

完璧には出来なかったが、ステージで皆と息を合わせられたのを感じた。終わった後、ステージに一緒に上がった人たちは皆、「大人の部活だ」と言っていた。これも、なかなかできない経験である。

もう30代半ばで、学校を卒業して10年以上まともに体を動かしてこなかった自分がどんなにやってもそうそう上手くはならないことは自分が一番よくわかっている。だが、始めた当初は爪先だけで床を打つ、と言われてもすぐには出来ないほど運動神経が鈍っていた自分が、人前でなんとか踊りを披露できるところまでこぎつけられたのだ。

やってみたいと思ったことは早く始めた方がいい。そして、続けたいと思えるのなら存分に努力をするのが良いのだろう。

今回ステージに上がった入門の生徒は皆、初級に昇格することとなった。

皆、仕事か世帯を持っている大人で、一番若い方でも今年就活である。次回の発表会は2年後だと聞いている。今回と全く同じメンツでステージに上がることは2度とないだろう。自分だって2年後、どうなっているかわからない。良い縁があったことに感謝し、また皆と一緒に頑張っていきたいと思う。

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スポーツ用品について

フラメンコを始めるにあたり、買ったのは

 


練習用のTシャツ×2

 


練習用のファルダ(スカート)

 


スカートの下に履くジャージ(ファルダを振り回す振り付けが多いので念のため)

 


フラメンコの靴

 


それらを入れるためのバッグ

 


だった。

 


Tシャツとジャージはユニクロ、ファルダはアマゾン、バッグは安くて丈夫ならなんでも良いとショッピングモールの特設会場で変な柄のトートバッグを購入した。

唯一靴だけは先生の紹介のままメイドインスペインのものを買ったので7,000円くらいしたが、他は合わせて靴と同じか、やや高いくらいだ。

今は発表会用の衣装代やら小物代やらで頭を抱えているが、フラメンコは始めるだけならさほどお金が掛からなかった印象である。

 


逆に、高くて目玉が飛び出したのがランニング用品である。始めたのが冬だったのでTシャツ、インナー、スポーツブラ、ウインドブレイカー、ショーパン、ランニングタイツ、靴下、靴を買ったところ、数万円吹っ飛んでいた。

果たしてこんなに買う必要があっただろうか、Tシャツにジャージ、300円の靴下で充分だったのではないか。そんな風にしばらくは自分の無駄遣いを疑っていたが、この間ランニング用靴下ではなく普通の靴下で皇居ランに参加したところ見事に足首を痛めたのでその考えは改めた。

 


スポーツ用品店で様々なスポーツに対応したウエアやシューズを売っているのには理由があるのだ。スポーツをするということは自ら怪我をするリスクを取るということなのだから、「安全に運動したい」と思うなら専用の機能性の高いウエアを準備することは必要な投資である。

それに、今はブームだからかランニングウエアに可愛いものが多い。最近夏用のTシャツを買い足した。早く走りに行きたい。モチベーションを上げるのにも気に入ったウエアは役に立つ。

皇居ランサークルに行くと、全身同メーカーのウエアの人もいれば、バラバラの人もいる。マラソン大会のTシャツを着ているひともいて会話のきっかけになることもある。

せっかくの趣味だ。楽しめる部分は積極的に楽しんでいきたい。

フラメンコ 2019.6.8

発表会が近い。

流石に振りそのものはもう覚えられたが、“上手く”“綺麗に”踊れているかと言われると、全くそんなことはない。残りの時間でなんとか人に見せても恥ずかしくない状態に持っていくのが個人的な目標である。

 

体の動かし方がわかったら指先にまで気を遣う。

動きが美しく出来るようになったら表情にも変化を付ける。

 

ダンスというのは運動ではあるが、運動を通じた表現なのだと改めて実感している。

ステージ上で考えなくとも美しく振舞えるようになったらさぞかし気持ちがいいだろうと思うが、実際にはまだまだ頭で考えてからでないと動けない。多少振りを覚えたからと言って指に意識を持っていくと、すぐに足が左右逆になったり、上げた腕を下げ忘れたりしてしまう。

というか、本来、フラメンコというのは即興なのだ。歌とギターと手拍子の人々と皆で息を合わせ、踊りをその場で作り上げていく。プロはどれだけ音楽に合わせるパターンを持っているのかが勝負だという。

 

私にとって、“表現”とは机に座って手と文字を使って行うものだった。

“思うままに書いた文章”が人の心を打つように、“思うように踊る”ことが出来たら、きっと人の心を動かすことが出来る。そんなレベルに到達することが出来るかどうかはともかく、理想を掲げるのは自由だ。自己表現できる手段をたくさん見つけていきたいと思う。

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私以外の人には些細なこと

「20年応援していたあるアイドルのファンを辞めた」今までの人生で最大に迷った決断だった。

「最優先でお金と時間を掛けて応援しようと思えるなにか」には、人生でもそうそう出会えないからだ。

20年応援した。その間ずっと、日々に張り合いをもたらしてくれた。思春期以前から追いかけていたから、私の思想の基盤みたいなものは大袈裟ではなくあの人たちの言葉と行動が作ってくれた。

 

何に対しても、愛していれば必ず不満を持つものだと思う。もし今好きな何かに対して全く不満が無いと言う人がいるなら、それはきっと見ないふりをしているだけだ。そういう人を間違っている、と指差すつもりはない。ずっと見ていたいものに対して不満を意識するのは疲れる。「他人は変えられない」ではないが、「自分を曲げてしまう」のが一番手っ取り早い。しかも、何と言っても愛しているのだから、少しの部分を無視するだけで自分は100%幸せでいられる。

今から思い返せば、最後の数年は私もだいぶ自分を曲げていた。あの人たちの活動の質が下がったわけでは決してない。ただ、私が見たい方向の作品や番組が、あまり供給されない日々が続いていた。それを、「本人がやりたいことだから」と納得していると自分に思い込ませていた。

 

 

ある年の、久しぶりのライブ。わたしは非常に楽しみにしていた。グループとしてのステージが、なによりも好きだった。

特にあの人たちが自由に話すのが好きだったから、私がライブで一番楽しみにしていたのがMCだった。

しかし、なぜかMCの時間は年を経るごとに減らされ、ついにはライブ中一度しかなくなってしまった。そして、あの日、その貴重なMCに台本があるのを感じ取ってしまったとき、私は自分の気持ちを曲げきれなくなってしまった。

もちろん、歌もダンスも最高な人たちだった。だが、数万人も入る会場の二階席後方からでは、はっきり言って何も見えない。後から発売される映像を買って見た方が余程しっかりと見られる。演出がすごいと言う人もいるが、私が見に来ているのはなによりも本人たちだった。それに、チケットが当たった回数分同じセットリストの公演を観る。MCすらも変えないというのなら、こんなに熱心に公演に通い詰める意味は、果たしてあるのだろうか。

MCを減らしたのは多分、あの人たちだけが決めた方針ではないだろうと思っている。だが、本人が逆らえない人が決めた方針と自分の好みが合わない時点で、もう、どうしようもないのではないか。

現場からの帰り、初めて素直に楽しかったと思えなかったあの日、SNSにはいつも通りの大絶賛が溢れていた。暗くなった家路を急ぎながら、私は、もうあの人たちの客ではなくなってしまったことをふと理解した。

 

少し経って、CDやBlu-rayをまとめBOOKOFFに売りに行った。嫌いに振り切れてしまった訳ではない。しかし、これらをもう再生機器に入れないだろうことは自分が一番よくわかっていた。

保存状態が良かったからか、初回盤がかなりの数入っていたからか、自分のBOOKOFFへの売却史上、最高の金額を受け取った。レシートを見て、思わず一歩後ずさってしまったのを今でも覚えている。次の瞬間、泣きそうになったことも。

後悔するだろうか、と少しの間身構えていたが、緩やかに本当の意味で私はあの人たちから離れていった。

20年の大半、本当に狂おしいほど好きで、「離れては生きていけない」と思っていたのも嘘ではない。あの人たちは、なにもかもを私に教えてくれた。

人と比べずに自分の人生を生きること、いつでも正直にいること、内面は絶対に外面に出るのだから努力を怠らず前向きでいること。

あの長い迷いからの決断を以て、あの人たちは私を「卒業」させてくれたのだ。

今でも元ファンとして、健康と幸せをそっと祈っている。

 

 

計画を立てる

忙しいと趣味に使う気力が無くなっていけない。

元々外に出ると消耗するタイプなので平日がバタバタしていると休日は家にこもりがちになってしまう。

やりたいことはあるはずなのに何もしていないな、という気分にまで回復できたら、やりたいことについて計画を立てることにしている。そんなに緻密なものではなく、この時期にこれをやりたい、と列挙するだけだ。多少以上日常が落ち着いていることが前提だが、計画を立てると実行する気力が湧いてくる。

 


6月はフラメンコの発表会があるので、

「なるべく毎日自主練をしたい」

終わったら

「髪をバッサリ切りたい」

「葉山女子旅きっぷで一人旅に出たい」

「家の中の古くなった諸々を買い換えたい」

「小説を書きたい」

 


多分、ワクワクすることだけ思い浮かべて書き出してみることが大事なのだと思う。大げさに言えばそれが希望に繋がる。希望があれば、生きていける。また、楽しいことをしたらブログに書こうと思う。

春物を買いに

服や靴を、1人で買いに行く買い物が好きだ。

友人と行くのも良いが、最近はそういうとき、大抵何も買わずに帰る。

自分だけかもしれないが他人の意見で買ったものは自分で決めて買ったものより使わなくなるのが早い気がする。

 

ところで、最近物欲が無い。

無いのだが、季節が変わって古くなった服や靴を整理すると、新しく買い足さないことには日常が回らなくなる。

「これが欲しい」を思って行く買い物が、たぶん1番楽しいだろう。

「これを買わねばならない」と思って店を眺めて回ると、商品の気に入らない部分ばかりが目に付いて、疲れ切った挙句に何も買わずに帰らざるを得なくなってしまうことがよくある。

 

自分に言い聞かせる意味でもう一度書くが、買い物は好きだ。

先週は春の服と靴を手に入れるつもりで街に出て、服は買いたいものが見つかったから良かったものの、靴は「商品の気に入らない部分ばかりが目に付く状態」になってしまい、今日もう一度出かけてやっと買えたが、2週連続で買い物に出られる程度には好きなのだ。

 

だから、買わねばならないものが出てきたときにはイメージを膨らませて、欲しいものを具体的にしてから出かけるべきなのだろう。

好きなのだから楽しみたい。

こうして買ったものを初めて身に着ける瞬間は、私にとってもとても楽しいひとときである。

 

皇居ラン 3回目 2019.3.29

1月、自分が初めて参加した時もそうだったが、今回もかなりたくさんの方がサークル初参加だった。

3回走ってもとにかくすぐ息が切れる。そんなに辛いわけでもすぐ疲れるわけでもないのに息が苦しい。
それでも今回は走る道々に桜が咲いていて勝手にお花見気分に浸ることが出来た。
気温は低めだったが、途中日比谷公園(?)でもたくさんの人々がお花見を楽しんでいたし、
外で運動をするにはいい季節になってきたと思う。
気温だけでなく、景色がいいとモチベーションが変わる。
少しずつ景色を覚えてきた今、花が咲いて一味違う印象になった皇居周りは新鮮で、より楽しく走ることが出来た。
自然の力はすごいと改めて思う。生命の営みの中で、勝手に人間を元気にしてしまう。
加えて、走りながらでも多くの人と話が弾み、非常に明るい気持ちで一周走り切ることが出来た。

次の目標は、走った後の飲み会まで参加することだ。
今までは走った後にお酒を飲んで大丈夫だろうか、と不安の方が勝っていたが、
走ってからすぐに帰ってしまうのも味気無い気がしてきた。
問題は自分の人見知りだ。
運動をしたテンションを上手いこと保って、普段の生活を送っているだけでは話す機会が無い方々と交流を持ってみたいと思う。

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書くこと

読むことと同じくらい書くことも好きだ。

自分のすべきこと、進みたい場所がわからなくなったとき、思うままに心情を書き出してみると解決することも多い。強く思うが、人に言うほどでもないことをとりあえずノートに書いてみるとすっきりできる、書くということは思考の視覚化だと思っている。

だから、逆に言えば自分の中にあるものしか出てこない。知らない言葉は使えないし、思ってもいないことを書けば必ずどこかに違和感が出る。

絵と違い、文章の上手い下手は自分では認識しにくく、自分の文章は上手だと考えている人間が多い、と、この間どこかで見た。

書きたいことを書きたいままに文章にするのは、実はとても難しいと思う。

上に書いたように、思ってもいない言葉を書いて自分でも違和感の正体を知っていながらも、「本心を書いたら煙たがられるかもしれない」「誰かを傷つけるかもしれない」もしくは「こんなことを考えているのは自分だけかもしれない」と思って直せないのはきっと、日常に文章を書く習慣がある人は経験があるのではないだろうか。

 

ブログを書こうと思う程度には、書くことが好きだし、文章が下手ではないと思っていなければ誰の目にも触れ得るインターネットなどという場所に長文を書く場所を設けようとは思わないだろう。だが、自分の文章は多分、人の心に触れるものには程遠いということはわかっているつもりだ。

上手い下手より一段上の「人の心を打つ文章」はつまり、自分の心をむき出しにした文章なのだろうと思っている。上手に書こうとしすぎて格好を付けているうちはそんな境地には絶対に至れない。

しかし、絵も描けない、曲も作れない、ダンスもレクレーション以上には出来ない自分に出来る目に見える唯一の表現が文章を書くことだ。ならば、私はそれを磨いていきたい。

そして、書くことが趣味、と堂々と人に言えるくらい、自信を持って自分の心をさらけ出したいものである。

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音楽を探す

音楽が無いと日々を乗り切ることが出来ない。意識低い系OLなので特に月曜の朝などはそのとき一番好きな音楽を聴きながらでないと家から出ることもままならない有様だ。

しかし、どんなにいい曲で気に入っていたとしても、そんな風に聴き続けていると遅かれ早かれ食傷気味になる瞬間がやってくる。なので、定期的に新曲を探す。10~20代の頃はテレビを付ければ毎日音楽番組をやっていて、なんとなく耳にした曲から世界が広がることもあったが、今は自ら探しに行かねば出会えない時代になってしまった。正直面倒に思う部分もあるが、止めてしまったらそこまでというか、感性が死に向かう一方な気がしてしまうので上手いこと面白く新しい音楽に出会える方法を模索している。

現状はスマホでできるゲームで曲がいいと評判のものを探して、ライトにプレイしながら“推しコンテンツ”を探している。J-popというか、アイドルを聴きながら育った人間なので、今は二次元アイドルが面白い。歌っているのは、突き詰めれば存在しない人たちなので、曲も詞もあらゆる部分でキャラクターとしての個性を押し出してくるものが多く、そういった部分を自分なりにとらえていくのが面白い。

しかし、なかなか“これを推そう”と決められるものに出会えない。しばらくは浅く広く探していく時間が続きそうだ。

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沖縄で食べたものの話

旅にもいろいろな楽しみ方があると思うが、個人的には知らない場所に行ったらその土地のものが食べたい。そう、わざわざ別記事にするくらいには。

 

*沖縄そば・ジューシー・もずく

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昨今、どこででも食べられる気もするが、単純に好物である。

出汁の味とコシの強めの太めの麺、豚肉。滋養が体に染み渡るようで、疲れているときに食べると格別だ。

 

*紅芋のモンブラン

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*ゆし豆腐

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魚介とトマトの具だくさんの鍋をいただいた。ゆし豆腐は固めの豆腐で、味がよく染みてとても美味しい。

 

他にも、ポーク卵サンドや居酒屋で食べたアグー豚や石垣牛など美味しいものがたくさんあった。水のきれいな場所の食べ物は素材から美味しいと思う。

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皇居ラン 2回目

旅の準備、旅、片付けが怒涛のように過ぎていった上に2月は短いので行けるか心配していたのだが、なんとか月1回のペースで皇居ランに参加することが出来ている。今回も金曜日でそもそものランナーの数がとても多い。サークル初参加の方も5人いた。

今回もポケットの無い服で行ってしまったので、スマホも時計も無くて記録が取れていない。ランアプリを入れて持って走る方がモチベーションが上がる気がするので次回までにちゃんと準備しようと思う。

 

今回も、周りの方々と話をしながら、止まらず、歩かずに一周することができた。自分の体力の無さから言って、これは本当に快挙なのだ。

例えば一人でも、とか、他のサークルに入っても、走る頻度をもう少し上げたい気もするのだが、フラメンコの振り替えに行くことや仕事で疲れてしまうときもあることを考えるとあまり無理も出来ない気がする。なんとかモチベーションを上げ、保つ工夫をしていきたい。

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沖縄 2泊3日

定期的に遠くへ行きたくなる。

多かれ少なかれ、皆そうだと思う。

自分の場合、恐らく人より高い頻度で住む場所を変えたくなり、3回に1回くらい実行に移しているのでお金が貯まらないのだが、今回はとりあえず行って帰ってきた。

 

暖かいところは良い。出発前日に雪が降ったこともあって「亜熱帯の冬」には随分救われた心持ちだった。

 

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*ガンガラーの谷

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予約制ツアーに申し込まないと入ることが出来ない。

入口から神秘的で、ツアーが始まる前から興奮してしまった。

聖地と言われる鍾乳洞や大主ガジュマルという聖なるガジュマルを解説を聞きながら見る、90分ほどのツアーだ。

ガジュマルは今生えているところから根を上へ伸ばし、「一歩先」の地面に新たに根を下ろしていくのだという。だから、「ガジュマルは歩く」と言われているらしい。

洞窟を抜けた先に樹齢150年という大主ガジュマルがそびえていた。

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この先何十年、何百年とかけてこの木は移動する。我々の人生より長いのかもしれない一歩の途に雄大な自然の営みを感じることができる。順路がすべて自然の中で、歩いているだけで気持ちの良い場所だった。観光ツアーの類を毛嫌いする方でなければぜひおすすめしたい。

 

*美ら海水族館

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超有名な観光名所は、とりあえず非常に込んでいた。行くまで知らなかったのだが、大きな海沿いの公園の中の一つの施設である。ジュゴンやウミガメはこの建物とは別の、専用の建物にいた。

メイン水槽がいろいろな角度から見られる構造になっていたのが印象的だった。まずは魚と同じ高さで見て、進むとやや上から、最後には天井に水槽がくる順路になっている。天井になったとき、真上でサメ3匹が寄り添って休んでいたのが微笑ましかった。

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イルカショーも建物の外で行われている。

40年以上もショーに出続けているというイルカの「オキちゃん」には貫録を感じた。

 

*ホエールウォッチング

ちょうど2月にしか見られない、というクジラを船に乗って見に行く。

小型船が高速で移動するため、相当乗り物に強い人でなければほぼ全員船酔いすると思う。私は軽い酔いで済んだが、一緒に行った我が妹は吐いた。

それでも、というか、道中のその苦労もあって、野生のクジラのブローイングや尾びれが海面から出る様を見られたのは貴重な経験で大いに感動した。そんなに近くまでは行けないのに、尾びれの形がはっきり見える。海にはあんなに大きな生物がいるのだと思うととてもわくわくした。

船酔いの影響で写真を撮る余裕が無かったのが悔やまれる。

 

*首里城

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何度も焼失し、再建しているという解説を読んで沖縄の歴史を思った。入口から城までが何重もの城壁に囲まれていて、迷路のようだった。傾斜の付いた階段、という冗談のような坂を上っていくと、立派な門が現れる。城は、赤と白の美しい建物だった。いくつも植物に祈りを捧げる場所があり、ガンガラーで聞いた「沖縄では場所全体に神が宿ると考える」という話を思い出した。

 

沖縄の人々は本当に全員優しくて、私も妹もずっと感動していた。道に迷えば聞く前に声をかけてくれる人がいた。居酒屋では(妹はあまり飲まないので)酒を一人分しか頼んでいないのに、御厚意でお通しを二人分出してくれた。

そして、皆さんそろいもそろって美男美女だった。

 

時間がゆっくり流れている、とても良いところだった。絶対にまた行こう、と妹と話しているところだ。

 

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江國香織について

10代の頃から読み続け、今でも変わらず面白いと思える作家は少ない。

江國香織を初めて読んだのは確か、高校2年の頃だった。あの時の私は1年間で100冊の本を読むと決めていて、しかも1冊読んだ作家の別の作品はなるべく100冊の中に入れないようにしていた。100人の著作を読む、と言い換えてもよいのだろう。

初めて読んだ時から、この人の物語の印象はあまり変わらない。どの作品にも独立した世界観があり、なのに必ずこの人が描いた作品だとどれを読んでもわかる文体が1本筋を通している。

個人的に、この人の一番の魅力はその文体だと思っている。「やわらかく冴える」とか「思い出はおはじきのように丸く可憐」とか、一見つながらないような単語が1つの文に効果的に収まっているので、文章を読んでいくうちに陶酔のような感覚を覚える。それを感じたくて読む。

少女が主人公のものより、女性が主人公の話の方が好きだ。完全に自分の好みの話で、少女の危うさより、女性の危うさを描く方が、この文体という魅力によりマッチしていると思っている。

あと、これも個人的な印象なのだが、読書の習慣がある女性は必ず一時期、どこかでこの人の話ばかり読む時期が訪れる。我が妹も、友人も、私自身もそうだった。必ず「江國にハマる」時期があった。

文字と文字の間に透明な自分が漂うような、物語に酔う感覚に身を任せるのはとても心地が良い。そういう贅沢な時間を求める時期が、多くの女性にあるのだろう。個人の偏見だが、男性が本を読むときは、もっと現実的な目的を持っていることが多いように思う。どちらも否定されるものではない。前者の読み方の嗜好に合うのは江國の書くような物語世界だ、というだけの話である。

 

ずっと好きなので、この人が書いた本はほぼ読んでしまった。

新刊が出るのをのんびり待っている。

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読書について

字を読みながら生きてきた。

趣味というよりもう中毒なので、大体の場面において字が目の前にないと落ち着かない。一人で食事するとき、風呂、トイレ、電車に乗っているとき。本が無くてもスマホを見てしまうし、スマホの充電が無くなればメニューや車内広告やシャンプーの成分を読んでしまう。誰に言われるまでもなく行儀が悪い。読まないのは歩いているときと寝ているときくらいだ。

ここ最近はミステリー小説を読んでいるが、面白ければなんでもいい。加えてなんとか面白い部分を見つけようとする性分なので、大抵の字は面白く読める。エッセイも新書も、興味深いものはたくさんある。

 

だから、読書をしたらブログ記事を書きたいと毎回思うのだが、自分がネタバレ回避派で特にミステリーは1番面白いところは絶対に伏せておくべきだと思っているので、考えているうちに何も書けなくなってしまう。何回かそういったことを繰り返して、どうしようかと考えていた。

 

ならば、作家について書いてみるのはどうだろうか。この人の書く物語のここが好き、なら、ネタバレせずに思っていることを存分に書けるのではないか。

 

ただ、好きな“こと”について語るのは個人の感想だと開き直って主観で書ききれるのだが、好きな“人物”について書くのはどうしても照れ臭い。

自意識過剰は百も承知ではあるが、的外れな褒め方をしたら申し訳ないし、言葉というのは絶対に感情を100%は表現しきってはくれない。そして、インターネットという場所に公開する以上、まかり間違ってご本人の目に触れる可能性もゼロではない。なので、なんというか非常に迷ってしまう。

だが、このブログを作った目的の一つはこの過剰な自意識の克服なのだ。

思っていることを、思った通りに表現できるのが表現力だと考えている。無駄に照れて心情をオブラートに包んだり、褒めすぎて焦点がブレ、一番伝えたいことを書ききれなかったりすることを無くしたいと思って始めた。

名も無いOLが、これから時々何冊か読んだ作家について心情を書き記す。この人は修行をしているのだな、と軽い心構えで目を通していただければ有難い。

こんな蛇足をしてしまう時点で十二分に自意識過剰ではあるのだが。

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