厄払い/川崎大師
期せずして2週連続で神仏に詣でてしまった。
こんな書き方だと失礼な気がするが、心情としてこれ以外の言いようがない。
どうも最近ツイていないことが重なっていた。詳しく書くとまた落ち込んでしまうので止めておくが、どうにも理不尽な災難が降りかかってくることが続いていた。
そういえば今年から厄年だったな、と思い出したのが昨日の昼あたりだ。
厄年の厄払いは節分までに行うのが望ましいとされている、と聞いた。昨日2/2はフラメンコの後歯医者の予約を入れていたので行く暇がなく、2/3は節分である。そして払うならば早いところ払ってしまいたい。ならばもう行くしかない。
川崎大師駅から川崎大師に行くまでの道は非常に込んでいた。節分である。川崎大師でも豆まき行事が行われることは、昨日、祈祷の時間を調べたときに知った。人込みが苦手なので、豆まきとは重ならない時間で祈祷を受けようと思っていたのだが、家を出る直前にイヤホンが見当たらないことに気付き、探していたらギリギリの時間になってしまった。目当ての時間の回を逃すと次は90分後、豆まきと時間が重なってしまう。仕方ない、遅れたのは自分のせいだ。腹を決めて急いで申込用紙に記入して受付に行くと、もう時間は過ぎていたがなんとか滑り込ませてくれた。
本堂は既に人が溢れ返っていた。御本尊の前では火が高く上がり、火の粉が天井まで吹き上がっているのが見える。向かって左側に正座をし、合掌して祈りを捧げる。目を閉じてお経に耳を傾けていると、段々と心が落ち着いていくのがわかる。その後、促されて御本尊に改めて手を合わせ、護摩と呼ばれるお札を授かる。
不思議なもので、全てが終わったときには「もう大丈夫」とすっかり安堵した心持になっていた。
多分、私の人生においてはこれが大事なのだ。昔親から言われた「お天道様が見ている」ではないが、そういう、大いなる存在を思い出し、自分のことを確認する時間が。非常に清々しかった。
おみくじを引いたら大吉だった。ありがたい気持ちでお寺を後にする。
今日は天気も良く、寒さも和らいでいた。歯の治療も昨日で終わった。
それで十分じゃないか。
最近忘れていた気持ちが戻ってきていた。もらったお札を大切に、厄年を乗り越えていこうと思う。
護摩に数え年で書いてもらうべき自分の年齢を思いきり満年齢で申告していたことに今気づいたが、神様や仏様はきっと、そんな間抜けでもどこかで見守ってくれているはずだ。